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「望月の頃」感想考察


 サークル「みずたたき」の水炊き氏が頒布された、東方同人誌、「望月の頃」の感想兼考察です。
 当然のようにネタバレ含む。
 後編が出たときに主に印象とか情景について語りましたが、しばらく時間をおいて改めて内容について書いてみました。いつも以上に調べ物いっぱいあって時間かかったりしましたが、無事かけて楽しかったです。
 いつものように一応明記しておくけれど、「これが正しい!」というわけではないです。むしろ、「ここは間違っている」とか「そんな風にも読めるのか」とか、同人誌を読み返していろいろ思ってくれると、書いたほうとしてはうれしいです。




     †


■総評



 望月の頃は夢の物語である。


 夢を現実に変えるわよ、とは秘封倶楽部が宇佐見蓮子の言葉だが、彼女の言葉を借りて言うのであれば、夢とは現実に代わるものなのだ。夢と現、二つの境界線は非常に曖昧なものである。正夢、逆夢、白昼夢、予知夢。夢は容易く現になるし、現は夢へと消えてゆく。そこに差異はなく、ただ、主観によって〝これが現だ〟と決めることしかできない。――そこにおいて、過ぎ去った過去が夢でないと、誰が言えるだろうか。世界が五分前に出来たものであると否定できないように。だから、「望月の頃」は過去を想い、夢を語る物語である。そこに絶対の真実などはない。あやふやな境界線上では、ただ、人の想いだけが最も尊いものとなる。ねがわくば、その想いが優しいものであればよいなと、望月の頃を読み終えたときに思ったものだ。

「望月の頃」に悪人はいない。〝敵役〟である八雲紫でさえとても優しい――永夜抄サイドから見れば何が目的か分かりづらい彼女の動きは、その実、東方妖々夢という視点から見た場合、これ以上なく明瞭となる。彼女はただ、親友である幽々子のために動いただけなのだ。西行寺幽々子は、その生を西行妖の封印に用いた亡霊である。妖々夢でそうあったように、西行妖の封印が溶け開花した時、幽々子の生の記録は一時的に蘇る。逆説的に、生時の記録が蘇った場合、西行妖の封印も溶けかねない危険性があるのだ。生の記憶を失った幽々子は、もはや過去を夢ですら見ることができない。彼女が彼女である限り、〝西行妖の開花と自身の過去〟を見ることはかなわないのだ――自身の夢の中では。
 だから、他人の夢なのだ。蓬莱山輝夜が過去の夢を語ることで、覚めてしまった夢と覚めなかった夢は混ざりあい、本来は見ることができないはずの〝満開の西行妖・生きていた過去〟を幽々子は夢に見ることができるのだ。そのまま夢が混ざりきり、その結果西行妖が開花し、「幽々子」が消えることを友人たる紫は危惧している。紫はただ幽々子のことを想い、夢と現を切り離すべく動いていた。モチヅキノコロ中編の表紙が前篇の表紙(夢語)を押しのけて登場している構図はそれを暗示しているし、彼女が後編で用いたスペルカードは「結界 夢と現の呪」であり、幽々子も中編23Pで夢と現が混合してしまうことを恐れている。夢と現を切り分けるため、物語に強制的にオチをつけて終わらせることによって、夢は現に変わることなく、夢のままで終わる。夢は泡沫のように消え、あとにはただ、想いの残滓がわずかに残るのみだ。
 そうである以上、寝起きの幽々子の目に浮かんでいた涙は、決して手に入らないものを垣間見た残滓でもあるのだろう――遠い昔、望月の頃、というのは、何も欠けたところのない全てが幸せだった手に届かない過去という意味を持つ。望月の繁栄を願った句を詠んだ藤原ですら滅びた。西行は望月を見上げて果てた。望月は見上げるもので、手の届くものではなく、だからこそ想うものなのだ。望月。言葉の意味において、それは、〝満開の桜〟というもう一つのモチーフと等しい意味を持つ。
 物語の最後において、同じく夢に誘われて夢に介入した妖忌に対し、八雲紫は幽々子を想いながら「馬鹿ねって、笑って頂戴ね」と呟いている。その台詞は、友の命を守るために自身が死を演じる無残さ(必死さ、と言うべきだろうか。親バカ子バカならぬ友バカな心配症なところ)を笑ってほしいというとともに、いつかそうやって過去のことを共に笑える日がくるといいわね、という願望がこめられているのではないか。夢は夢のままに終わった。桜が咲くことはない。かつての記憶――かつての想い出は、土のなかに埋められた。ただ紫だけが、そして「望月の頃」においては、来客である輝夜と永琳だけがそれを覚えている。桜が満ち、月が満ちた夜の、一夜の夢の如き幻を。

 一方、永夜抄サイドから見た場合、また少し物語は見方を変える。「望月の頃」という同人誌は、輝夜が誰かに語るモノ、モノガタリである。過去に起きた話を、輝夜はまるで今起きているように語る。そのことに不可思議はない。永遠を生きる彼女にとって、百年前と昨日に差異はないし、究極的に突き詰めてしまえば昨日と明日に差異がない。〝時間の流れ〟といういものが意味を持つのは永遠をもたざるもの、輝夜を取り囲む常たるモノたちの方であり、輝夜そのものは一歩外から〝流れ〟を見ているに過ぎない。そうであるがゆえに、輝夜はラストで阿求に語る。今が大切なのだ、と。そこに話し手がいて、物語る今この瞬間こそが起点であり、想い、語ることで、過去も未来も形作られていく。それは、永遠ならざるものたちにとっても、決して無関係なことではあるまい。
〝過去に何があったか〟という単純な事実は問題ではない。〝何があったと語るか〟という、語り手の瞬間(想い)と、そして聞き手の瞬間が混ざることで、物語は過去としての実を持つ。そうして、夢は現へと変わるのだ。それは暴論であるのかもしれない。しかし、それだけではないはずだ。蓬莱山輝夜は、過去に本当にあったのは、一夜の交流、ただそれだけだったと語る。その言葉すら、事実ではなく、彼女の想い出であったと否定することはできない―― 否、それ以前に、輝夜にとってはそれだけだったとしても、幽々子にとっては決して〝それだけ〟の意味を持つモノではあるまい。出会うものを次々と殺してしまう幽々子にとって(そしてその出会いが、幽々子の最後が近い時期であったのならば)〝死なない輝夜〟との交流は、それが一夜のものでも、他愛のない会話であったとしても、大きな意味を持つ――すでに失われてしまった、大切な想い出であったはずだ。その大切であった想い出を、幽々子は思い出すことができない。夢に見ることすらない。彼女の内からは失われてしまった。彼女はただ、他人の夢の中にそれを見ることしかできないのだ。それでも、輝夜と紫は小さな約束をしていた。「お月見をしよう」と。それが真にあった会話なのか、あるいはただそう想っただけなのかはわからない。けれども彼女たちは、長い長い時間を経て、お月見を果した。偽物の月ではない、本物の月を。その約束を果たした亡霊の姫に対し、月の姫は「懐かしい人ね。いえいや、人だった者かな?」と、再会の言葉を投げかけるのだった。
 作者である水炊き氏は、ブログにて最後の一文にたどりつくものではない、そこがスタート地点である物語だと語った。永遠になってしまったものには、始点と終点も生まれえない。それがあるとすれば、やはり永遠と何かが触れ合ったところから始まるのだろう。永遠であるものと、永遠にあらざるもの。無常なるものと、常なるもの。幽々子と輝夜が巡り合い、話し手と聞き手があることによって、「望月の頃」という夢物語は産まれ得た。幽々子と紫は、そこに夢を見た。阿求と輝夜は夢を語った。桜は全て散るとて、失われることのない望月の下で、光は枝に咲くだろう。満開の桜と望月。決して手に入れることのできない幻想の郷。物語ることで、それは今に蘇るのだ。





■その他雑感


・八意 永琳について

 作中に八意 永琳は三人登場する。
 一人は「輝夜が語る過去の永琳」である。おもな登場は前篇~中篇で、これは「お話の中の登場人物」であるため、未来のことも紫のことも知らない。あくまでも過去の登場人物、キャラクターとして語られている。
 次に二人目、後編で少しだけ出てくる「過去の永琳」。これも一人目と同じようにキャラクターとしての永琳であるが、ここでは語り手が変わっている。「輝夜の語る永琳」ではなく、「紫の語る(騙る)」、輝夜の語りと幽々子の夢を切り離すために用意された虚像としての永琳だ。
 そしてその二人目を消して現れた三人目、これは現在を生きる本物の永琳である。後編の23Pにてひっそりと胡蝶夢丸が描かれていることから、永琳が眠り夢を見ることで、「輝夜の語りと幽々子の夢」がつながった物語の中へと参戦したのは明らかだ。ここからの永琳は本物/現在の映林であるため、紫のことも知っているし、過去には存在しないはずのスペルカードを遣うこともできる。
 輝夜の語る永琳、紫の語る(騙る)永琳、永琳自身が語る永琳。この三人の永琳は、「望月の頃」という物語の展開と完全に同化している。お話が進み変化するたびに、永琳という存在も変化していく。(輝夜の昔話、紫の妨害、輝夜の反撃、という風に)。阿求を現実の側の聞き手とするならば、永琳は語りに対して反応を返す、物語の中の聞き手であるのだ。


・魂魄 妖忌について

 一方、魂魄 妖忌は物語を通して常に一人である。
「望月の頃」に登場する妖忌は、外見は若いように見えるが、その中身は最後にちろっと出てきた老妖忌その人であり、彼もまた聞き手である。永琳が眠り夢を見ることで輝夜の語りの中へと入っていったのと対照的に、彼は眠りの中で幽々子の夢へと誘われた、幽々子の側の聞き手である。
 だから、彼はすべてを知っている――これが夢であることも、この先に幽々子がどうなるのかも。知っているからこそ、語り手の意図を探るために彼は大人しく聞き手に徹していた。
 ……輝夜や幽々子ほどその内面は描かれてはいないが、しかし、一歩踏み込んでこの剣客の心情を想像したとき、色々と胸にくるものがあった。彼は知っていた。この幽々子が失われることを。そして、二度と手に入れることのできないものであると。これが、失われた過去であることを……だから、妖忌が刀を抜いたのは、追い詰められる輝夜のためではない。輝夜を友と呼んだ幽々子の、その夢を守るために、彼は刀を抜いたのだ。
 同様に考えたとき、輝夜を叩く妖忌の行動は大きな意味を持つ。(余談だが、初めて中篇を読んだとき妖忌の戦闘シーンの格好よさ、そしてその言動が強く印象に残り、それがどうしてだろうと自問自答したのだが、後編にてこうして明白になった)。自ら動くことをしない輝夜を叩くだけの理由が妖忌にはあった。彼は知っているからだ――西行寺 幽々子のことを。その死を。幽々子が、多くのものを殺さないため、自ら死を選びとったことを知っているからこそ、妖忌には輝夜の「何もしなさ」が許すことができず、「人任せにして何もしないままに死ぬのか」という言葉がそこから吐き出されたのだろう。
 妖忌が「今の人物」だと知らず「夢の中のキャラクター」だと思っていた輝夜には、それが物語る誰かの意図だと思っていたが、それは意図ではなく、妖忌の感情を基とする激励でもあったはずだ。


■句について


「望月の頃」において、幾つかの和歌が重要なファクターとして用いられている。タイトルは西行法師の句の一節であり、主要人物である幽々子は歌聖の娘である。語り手である輝夜も、竹取物語の時代を生きたものとして和歌は必須技能であったはずだ。手紙のやり取り求婚その他諸々、交流の手段として和歌は詠われてきた。幽々子と輝夜の交流の物語としてとらえた時、和歌を取り除いては語れまい。
 和歌とは、それ単体で読んだ時にはひどく単純で、簡潔なものである。私たちがそれについて考え、奥行を各々の心中で再現したとき、初めて真の魅力を取りもどす。だから、本来はその句の歌い手、詠われた時代とともに語るべきものなのだが、今回は同人誌の感想であるため、その句を引用した幽々子等の心情を絡めて考えるとする。

 
・鶯の 声ぞ霞に漏れてくる 人目ともしき 春の山里

 立春の歌、と幽々子はとっさに応えるが、どちらかといえば肝要なのは句の後半、山を行きかう人の少なさ、という部分だろう。その山里、人のいないところに住まう幽々子と、「行き交う人」である輝夜と永琳の在り方が歌に映し出されている。
 そして微妙にとんちんかんなことではあるのだが、鶯と聞くと、鳴くよウグイス平安京という語呂合わせを思い出す。竹取物語が成立したのは恐らくは平安時代であること、竹取物語の派生物語として「うぐいす姫」というものがあることから、「霞の向こうから漏れてくる鶯の声」は輝夜の寝息とも考えられないだろうか。


・炒り豆などやうな物~

 下ネタの句。えっちー輝夜超えっちー。
 すごいほのぼのしたやりとりだが、この和歌、いよかん。がほた。氏の同人誌、「宴に至る。」の後編にも出ていたりする。スペシャルサンクスにも互いの名前がのっており、同人における作者同士のある種の遊びと考えればとても楽しいのだが、しかしお話の一面として捉えると別種の感慨深さがある。
 望月の頃において詠うのは生前の幽々子であり、宴に至る。において詠うのは死後の幽々子だ。
 西行妖という閾によって分断されているにもかかわらず、二人が同じ句を詠うというのは……なんというか、失われることなく続いているものがあると、たとえ多くを失ったにせよ、彼女たちはどちらともが『西行寺 幽々子』であることに変わりはないのだと、そう思うことができるからだ。


・花見にと 群つつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける

 元歌は「さわぐならくんな! でもホントは静かに花だけを見てほしいんだからねっ」というツンデレソングだが、問題はここで、それを幽々子が歌い、輝夜が紡ぐということである。西行法師の意図だけではなく、幽々子の意図も含まれるとすれば、その歌はもう少し大きな意味を持つ。
「死ぬために桜の傍へこないでくれ。ただ、死ぬことなく父の眠る桜を見てほしい」という風に。
 歌の前半には幽々子の説実な心情が、歌の後半には死ぬことなく桜を見てくれた輝夜への想いがこめられている。それを輝夜が語るということは、その想いは、確かに届いたということに他ならない。
 この句にかぎらず、望月の頃でたびたび用いられる句は、輝夜と幽々子の交流の証でもあるのだろう。


・願はくば 花のもとにて 春しなむ その如月の 望月の頃

 あまりにも有名すぎるこの句に関して語るべきことはひとつもない。
 というか後述するが、この物語が、この句を表現しきっている。


・憂き世には とどめおかじと 春風の 散らすは花を おしむけりなり
・風さそう 花のゆくへは しらねども おしむ心は みにとまりけり
・春風の 花を散らすと 見る夢は  さめても胸の さわぐなりけり

 西行法師の歌は似通っているものも多く(というより、歌聖がただ一つのものを追及するために幾度も幾度も繰り返したという見方もある)、この三つの句はまとめて語ってしまう。上から生前の幽々子(これは登場した紫の語りかもしれない)、語り終えた輝夜、夢から醒めた幽々子の句という点で、並べて語ることにも意味があると思うからだ。

 一つ目を紫が詠っているとすれば、その意図は明白である。憂き世かつ浮世、その世界に花を置くくらいならいっそ散らしてしまえ――という春風の心は、そのまま後編の冒頭で出てきた紫の心情そのものである。桜は幽々子のことであり、「とくしなば=さあ、しのうではないか」という無常感は、桜の散りざまに無常感を描き出す西行の手法と変わらない。ここで惜しんでいるのは、桜である幽々子ではなく桜を揺らす紫の方である。後編の最後において、介錯を必要とすることなく幽々子は惜しむ心、迷いを自らの手で断ち切っている。
(余談だが、若妖忌は刀を楼観剣一振りしか持っていない。幽々子が迷いを斬ることによって、その刀が「迷いを斬る刀、白楼剣」としてその瞬間に概念を得たのかもしれない。)

 次の句、全てを語り終えた輝夜の句もまた、惜しむという言葉が用いられている。一つめでは「おしむが故に風が散らす」だったが、二つ目の句は「風が散らしたものを惜しむ」と、同じ桜の散り方でも見方が異なっている。幽々子が桜であることに変わりはないが、とまる身は風ならぬ人の身である輝夜だ。風は散った桜の花を持っていくが、人の前には散り終えた桜の樹が残されるばかりである。残された側だからこそ、惜しむ心が身にとまるのだ。似たような句ではあるが、紫と輝夜の立場の差異がひっそりと暗示されている。

 最後は夢中落花な句。夢から覚めてしまった幽々子の心情とともに、望月の頃という一つの物語をくくる歌。春風が桜を散らす美しい夢を見、目が覚めてもその情景が私の胸をざわめかせるという句だが――上二つと並べて語ると面白いことが一つ。ここでいう「桜」は幽々子のことでもあるが、同時に「私」も幽々子のことである。アンドロイドは電気羊の夢を見るか、ではないが、桜は桜の散る夢を見るか、といった塩梅である。それとも桜は、自らが散る夢を見ることで、初めて散っていくのだろうか? 夢を現に変えるように? どうだろう。ただ、咲く桜も散る桜も、幽々子はもはや夢で見ることすらできない。西行妖の美しい情景は――そしてその桜とともにあった友たちのことは、夢で見ることしか叶わないのだ。彼女以外の誰かが語らない限りは。
 無常感とは、それ単体で成り立つものではない。常なるものを見るモノと想いがあって初めて成り立つ。桜はすべて散ってしまったが、常なる誰かが語ることにより、その美しい情景は記憶の中に蘇る。その情景すら散りゆくとしても、咲き、散る美しさは、胸の内に何かをもたらすことだろう。


■最後に

 少し話はそれるけれど、感想内で触れた宴に至る。に限らず、ほた。氏の本を語るとき、自分はよく「強い」という単語を用いる。それは単純に力の強さというだけでなく、対峙する概念である「弱さ」を含めた、「強さを求める」「強く在ろうとする」「強く在ることができない」「意志を貫く強さ」といった、「強い」ということにまつわる多くの視点、概念がその作品の中に現れていると思うからだ。無論、勝手に思っているだけである。氏が本当は何を語ろうとしているのか自分は知らない。読み手たる自分は勝手に思い、そして想うだけだ。
 想うこと。
 望月の頃は想う物語であり、そして同様に自分は作者の水炊き氏の作品を「優しい」と表現することが多々ある。氏の既刊を読んだときにも同じように語った。ただし、対峙する概念は、厳しいではなく、「悲しい」だと思う。悲しい。悲しいから優しい。悲しさを知っているから、彼女たちがとても優しく感じられる。西行法師の無常感――桜はやがて散るという悲しさ。それを知っているからこそ、語る輝夜が自分にはとても優しく感じられたのだ。だからこそ、その西行法師を語る上で外せない「望月の頃」というタイトルは、この優しい物語に相応しいと、私はやっぱり勝手に想うのだった。桜は散り、散るけれど、そのさまを見ていたものの心に決して失われることのない望月のような感情を残す。「望月の頃」という同人誌を読み終えた時、私たちの心に浮かんだ想いは、正しく彼女たちのそれと同じものであったはずだ。語ることで夢は蘇り、聞く――読むことで、私たちはその幻想を共有したのだ。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


2009年1月12日 人比良





2009.01.12 | | Comments(1) | Trackback(0) | 感想

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