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宴に至る。感想兼考察

 サークル「いよかん。」のほた。氏が頒布された、東方萃夢想の二次創作作品、「宴に至る。」の感想兼考察です。
 当然のようにネタバレ含む。
 後編が出たときにネタバレに触れずにうまく書く自信がなくて中身にはあまり触れなかったのですが、あらためて思い到って書いてみました。どっかで「わかりづらい」って感想を見たのが多分最大の理由かもしれない。
 怪弾七のときにも書いたけれど、「これが正しい!」というわけではないです。むしろ、「ここは間違っている」とか「そんな風にも読めるのか」とか、同人誌を読み返していろいろ思ってくれると、書いたほうとしてはうれしいです。


     †


 宴に至る。は約束を守る鬼の物語である。



 もういいかい、と子供の遊びにおいて問いかける言葉がある。子供の頃に、外で遊んだことがある者ならば誰でも放ったことがあるだろう――もういいかい、と。それに対して返ってくる言葉は、「まぁだだよ」という〝待〟の返事か、「もういいよ」という"動〟の返事であり、問いかけに対して答えが返ってくることによって初めて遊戯は成立する。すなわち、「もういいかい」という言葉は、ただの独り言ではなく、声を投げた向こうに誰かがいると信じる行為なのだ。
 この遊びは普通「かくれんぼ」と呼ばれるが、同時に「隠れ鬼」と呼称もされる鬼ごっこの一種である。もういいかい、と問いかける子供は鬼の役であり、もういいよ、と答える子供が人の役だ。子供たちはその瞬間、鬼と人のルール、つまり約束を守って対峙するという行為を体現している。なぜならば、「まあだだよ」という返事が返ってくるかぎり、鬼役は決して動かないからだ。隠れている最中に追いかければ簡単に捕まえることができるというのに、鬼役は目をつぶり、「もういいよ」と声をかけられることを信じて「もういいかい」と問いかけ続ける。信頼に基づく遊戯。それは古来から伝わる、約束を守り対峙する鬼と人のあり方を、〝遊び〟の形で伝えてきたものだ。



 宴に至る。という同人誌において――そして東方萃夢想において――その約束は裏切られる。もういいかい、と問いかける鬼に対して、人の側は何も答えることなく遊び場そのものから去ることを選ぶ。毒とだまし討ちによって、約束というルールから人間は逸脱し、関係性を放棄する。遊び相手だった人が去ったことに絶望し、鬼たちは問いかけるのを止めて、彼らもまた遠くへ去っていこうとする。
 ただ一人、伊吹 萃香を除いて。
 鬼たちの中で唯一、萃香だけは立ち去ることを拒む。彼女だけは、誰もいなくなった遊び場で、それでも「もういいかい」と問いかけることを頑なに続けようとする。そのことによって仲間の鬼たちと相打つことになっても、だ。なぜだろう――彼女が〝鬼〟としてはぐれものだからか? 違うだろう。伊吹 萃香は、誰よりも鬼たらんとするからこそ、問いかけを止めず、仲間の鬼たちを嘘つきと糾弾するのだ。
 なぜならば、鬼とは約束を守るモノであり、萃香は約束を守ろうとするからだ。鬼として、約束を破ることによって「嘘をつく」ことを拒んでいる。彼女は知っているのだ――誰もいなくなったはずの遊び場に、問いかける向こうに誰かがいることを。問いかけ続けることでいつかは返事がくることを。〝戦い〟によらない遊びがあるのだと、その遊びはまだ続いているのだと、小さな約束によって知っているのだ。



 宴に至る。は、大きく二部に分けて考えることができる。ひとつは約千年前、皐月という少女と萃香が「約束をする」話。そしてもう一つは、現代の幻想郷における、皐月という少年と八雲 紫が「約束を守る」話である。千年の時間を隔てた二つの物語は、前述したように(そして作中でも明示されているように)「もういいかい」と問いかけて、「もういいよ」と返事がくるという、約束が守られる物語なのだ。
 ちなみにこの2パートは、ミステリ的ロジックによって時系列が複雑に入り混じっており、二つの間に千年の時間が流れていることがわかるのは、後編本になってからである。どこかで「わかりづらい」という感想があったのは、多分そのせいだろう。しかし読み返してみるとはっきりとわかるのだが、二つのパートは作画的技法によってきちんと区分けされている。すなわち、外周部が黒ベタなのが過去編であり、白いのが現在編だ。
 宴に至る。前編の28~29P、後編46Pでは黒から白へとグラデーションが変化することで千年の時間の経過を表しているし、中篇の09Pでは白から黒へと泡のように変化していく図柄が、泡沫の記憶を想い起こしているように見える。その時間の経過を踏まえて読むと、構成のはっきりとした、一つの筋道たった物語が見えてくる。



 さて、前半が皐月と萃香が約束をする物語だとはすでに述べたが、では後半のパートはどのような物語なのか。視点は幻想郷へ、主役はかつての萃香を知る妖怪こと八雲 紫と、「約束をした少女の子孫」である皐月少年へと移ることになる。
 皐月は嘘つきである――と、周囲から思われている。それは狼少年のごとく、幻想郷にはすでにいないはずの「鬼がいる」と主張するがゆえであるが、少年はそれを嘘だとは思っていない。いてほしい、と信じている。だからこそ、それが嘘になってしまうことを拒むために、「どこかにいる鬼」を探そうとする。それは、とうの昔に失われたはずの、鬼と人とのあり方に他ならない。「もういいかい」と問いかける先に誰かがいることを信じようとすることと、皐月少年の在り方は何も変わりがないのだ。
 そしてそれこそが〝宴に至る。〟の妙である。この同人誌は前半と後半、千年前と現代で、問いかける側が逆転するのだ。人である皐月少年は、立ち居地として〝鬼〟の役なのである。そのことは作中でも紫が明言している。紫と皐月が鬼役であり、萃香こそが人間役という、〝役割の逆転〟が後半では行われているのだ。正しく、宴に至るとは「鬼〝ごっこ〟」の話なのだ。
「皐月」という人間は、子々孫々と鬼がいたことを忘れることなく伝えながら、約束を守り、鬼を信じ、問いかけ続けた。もういいかい、と。遊ぼう、というその言葉に、だからこそ萃香は答えたのだ。鬼として約束を守り、人の役につくために。幻想郷だからこそなしえる、鬼と人の逆転あそびだ。

 そしてその構造は、八雲 紫とて例外ではない。〝鬼役〟を自称する八雲 紫は、作中によってどのような意味を持つのか。妖である彼女は、人としての〝鬼ごっこ〟ではなく、古来の鬼と人の関係を体現しようとした。古来の鬼。「人をさらい、勝負を挑む鬼」の役を、紫は演じている。それは前半パートにおける萃香のやった行為をなぞっているのだ。
「さらう鬼である萃香」の役を紫が演じる。さらわれる少女(皐月)の役こそが、当の鬼である萃香である。ここにも前述した「人と鬼の役割の逆転」がかかわってくる。鬼(紫)は人里(鬼の集落)から子供(萃香)をさらうという、古きルールを鬼ごっこという形で利用したのだ。ルールのある遊びという規定を持ってこられた以上、約束を守り嘘を嫌う鬼たちは紫の提案を断ることはできない。子供(萃香)を取り返すために、人たち(鬼)は、人攫い鬼(紫)へと勝負を挑む。勝った方が子供を得るルールのある勝負だ(そしてそれは、弾幕遊びというモノと意味においては同一である)。
 鬼たちは紫の提案に乗ったのはそういうことだ。勘違いしてはいけないが、鬼たちは決して〝悪役〟ではないし、勝ち負けにこだわっているのでもない。宴に至る前編19Pで、人間に敗北した萃香はうれしそうに笑っている。勝負そのものを楽しんでいるモノであり、人間をさらうことで始まった祭りは鬼が人間に負けることで終わる。それは命をかけた祭りであり、真剣勝負による共同体の構成なのだ。かつての人間たちはそれを鬼の理屈であり迷惑だ、と言い、鬼たちは絶望して幻想郷を去った。しかし、鬼たちは鬼である限り、「鬼がさらった子(萃香)を取り返しにきた人間代表」である紫の誘いを断ることはできず、紫に負ける以外の結末もありえなかった。
 萃香が後編で「私の暴れた意味ナシか……」と呟いているのもそういうことだ。紫は「人間役と鬼役」を器用に使い分けることで、鬼のプライドを守りながら萃香という友人を連れ戻す。宴に至る。前編での萃香の大立ち回りは、実は物語においてはあまり意味がない。ただし、まったく意味がないわけではない。意志を表明するという一点において、あの戦いは大きな意味を持つ。あの争いがなければ、鬼の長は決して紫には負けなかっただろう。子供(萃香)を取り返すために死ぬ気で戦ったはずだ。しかし、子供である萃香が、鬼(紫、皐月)と一緒にいることを選んだからこそ、彼は敗北を選んだ。それは、かつて望んで手に入れることができなかった、「人と鬼が共に生きる道」の一つの形であったからだ。



 人と鬼の生きる形、関係性。
 宴に至る。ではそれが大きな主題として扱われている。関係性が崩壊することで鬼は幻想郷を去り、人は鬼を忘れた。しかし、「そうでないものがある」と主張するのが萃香の存在であり、宴に至る。という同人誌である。
 作中で鬼の男は言う。「お前一人の帰還で幻想郷の何が変わるというのだ」、と。すでに変わってしまってどうしようもないのだと鬼は悲観する。けれど、萃香は何かを変えたいのではない。変わらないものを、変わることのない約束を守ろうとしているだけだ。彼女だけは「もういいよ」という返事がくることを信じていた。始まった遊びが、終わることを信じていた。なぜならば、祭りが始まり、終わることによって、ハレはケへと回帰し、日常を取り戻すのだから。
 それはきっと、昔の鬼と人の関係ではない。人は嘘という新たな武器を手に入れた、と紫は言う。宴に至る。中篇でそれを言う紫はまるで萃香を責めているようだが、その実、彼女は萃香の背を押しているのだ。嘘を手に入れた人間というのは、関係性の崩壊ではなく、「新しい遊びの形態」を手に入れたことに他ならない。人間が刀を持ち、祝詞を用いて鬼と対抗した武器のひとつに、嘘が加わっただけなのだ。そこに変質はあっても、本質そのもの、「鬼と人間の対峙」に変わりはない。その対峙を続けたいのなら、紫に頼るのではなく、萃香そのものが真剣に向かい合う必要があったから、彼女は責めるような言葉とともに提案をするのだ。
 鬼という種族、という群れはその変化についていけず幻想郷を去った。しかし、萃香という括弧たる個の鬼は去らなかった。その時点で彼女は古き鬼から変わってしまった。しかし、もっとも古き大切な想いは変わらなかった。萃夢想において萃香は変わりものの鬼、と呼称される。それは、もっとも新しい鬼のカタチ、在り方ということではないのか。
 そもそも、萃夢想という作品を思い返してほしい。萃香は祭り(弾幕遊び)を起こし、その祭りが終わる(負ける)ことによって、萃香は幻想郷の共同体の一部となった。それは今まで述べてきた人と鬼の在り方であり、昔から続く関係性だ。しかし――よく思い返して欲しいのだ。祭りに参加していた面々を。その大半は妖怪であり、純粋な人間はほとんどいないのではないか。いや、はっきりといってしまおう、「ただの人間」はそこにはいない。萃香が古い鬼のままであるならば、彼女が萃めるのは里の人間たちでなければならないのだ。だというのに、彼女が萃めたのは妖怪、吸血鬼、巫女、魔法使いといった風変わりな面々だった。
 なぜか。
 萃香は宴に至る。において知ったからだ。「鬼の役をする人間」がいるように、「人間の役をする妖怪」という遊びがあるのだと。萃香によって萃められた妖怪たちは、そのすべてが人間役なのだ。昔から姿を変えた、もっとも新しい鬼のカタチである萃香は、「もっとも新しい鬼と人の関係」を作り上げたのだ。鬼にして人。人にして鬼。新たなルールが加えられ、祭りの方法が変わり、しかし、大切なものは何も変わっていない。
(これは余談だが、緋想天にいる文が萃夢想にいないのは、天狗は鬼とともにあるものであり、人間役を演じるものではないから、とも考えられる)。



〝宴に至る。〟というのは、良いタイトルであると思う。はじめはそれが「萃夢想という宴に至るまでの過去話」という意味だと考えていた。それはおそらく間違っていないのだろう。しかし全てを読み終えたとき、それだけではないことに気づく。宴。宴とは祭りであり、宴会であり、遊びであり、戦いである。鬼と人が袂をわかったとい、宴もまた失われていた。しかし、萃香は問い続け、相手を信じ続けることで、再び宴は始まった。この同人誌そのものが宴を体現するものであると同時に、そこに〝至る〟までの過程をきちんと描ききった作品なのだ。宴とは何もせずにただ待っているだけで始まるものではない。宴をしようという強い意志を持つものたちが、それぞれに動いて、その結果初めてそこに至るものだ。それは前へと進もうとする強い意志であり、約束を守るという強い力なのだ。それを忘れない限り、人は鬼とともにあり、鬼は人ともにあり、そこに祭りは生まれることだろう。

2008.12.20 | | Comments(3) | Trackback(0) | 感想

コメント

鬼の思考について

感想を読んでからの感想

「宴に至る。」を読んだときから感じていた不快感の正体がわかった気がします。人比良さんはかくれんぼには「もういいかい」「まぁだだよ」の問いかけを必要とすると書いていますがそれよりも重要なものがあります。遊ぶんだったら遊び相手に「遊びましょう」と誘わなければなりません。それに対して「いいよ」なり「うん」なり答えて初めて遊びが成立するわけですが鬼連中は(最低でも萃香は。萃夢想でも自由意志に関係なく集めさせて宴会開かせてましたし)その前段階を踏んでいない。遊び相手の事情を省みることなく、人間は鬼と戦って当然と思ってい「おにごっこ」をけしかける鬼たちの傲慢な考え方が私には気に食わなかったのかもしれません。

2008-12-27 土 01:03:44 | URL | Bash #- [ 編集]

Re: 鬼の思考について

Bash さん、コメントありがとうございます。

 不快感はその通りだと思います。萃香に限らず鬼たちは「おいのび太野球するから強制参加な!」なジャイアニズム的なところがあって、宴に至る。作中でも人の村の長が「それは強者の理論だ」となじっています。
 それは人の側から見た正論で、それで裏切られたと去っていく鬼たちはある意味では弱者なのかもしれません。鬼は遊び(襲撃)をけしかけた、人は対策を練った(酒毒)、ならば次は鬼がどうするか――というところで彼らは去っていったのだから、人の側から見たらすごく勝手です。
 実際、萃香にしても「自ら鬼と遊ぼう」と歩み寄ってきた皐月や紫と再会することはあっても、かつて離別した人間の里と再び遊ぶことは叶わず、萃夢想においても妖怪や特殊な人間相手におにごっこをけしかけています。

 それはやはり強者の理論、というか、「鬼の思考」であり、「人と鬼が違うものだ」ということなのでしょう。違うからこそ不快感が生まれるし、あるいは逆に好意をもってつきあっていけるのかもしれない。鬼の強さと言うのは、そのまま鬼の弱さにもつながるのだと、そんなことを思いました。

2008-12-27 土 13:12:16 | URL | 人比良 #- [ 編集]

お礼を言うのが遅くなりましたが返信いただきありがとうございます。
お礼ついでにもう一つ質問なのですが鬼の長が降参する前に放ったコロニーレーザーのような技。これを見た紫は何かを悟ったようですが私には何が分かったのかがさっぱり分かりません。何か思うところがありましたらお答えください。

2009-05-27 水 21:58:43 | URL | bash #- [ 編集]

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Author:人比良
原稿中。

だだもれ思考。

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